
入り口の扉を潜った、その一瞬だけ、葛西は18年前の光景を思い出した。
それは覚悟していたより短いフラッシュバックで、その時隣にいた筈の女の表情は、
残像すら残さず脳味噌の後ろの方へと消え去った。
産婦人科ほど、男にとって居心地の悪い場所はない。
膨らんだ腹を労り庇いながら行き交う女達。
その側を駆け廻る、弟や妹が出来る事すらまだ認識していない子供達。
壁に貼られたポスターには、衛生や避妊を促す言葉や生々しい子宮なぞの挿し絵。
かと思えば、一見こういった場所とは無縁そうなキャリアウーマン風の女。
どう見たってまだ学生の、少女。
マタニティー雑誌と並んで、幼児を黙らせる為にあてがわれた積み木や絵本。
更年期障害におけるホルモン注射の呼び掛け。
……女の幸せと沈痛さが共存し、男の存在そのものを拒むような空気。
女はいつも言う、「男には判らない」と。
ここがその集大成ってヤツだな、と葛西は思う。
この世には男と女しかいない、それでいてここに来ると「男」という生物は女に紛
れた有害な寄生虫、異質異端なマガイモノだとさえ錯覚させられるから不思議だ。
葛西は元来何ごとにもさして動じない質だが、ここで女達から特有の視線やオーラ
を浴びせられると、初めて銃口を突き付けられた時のように、陰嚢が畏縮するような
不快感をおぼえるのだ。
「ホントは、ひとりで来るつもりだったんだけどね」
沙織が少しすまなそうに、照れ笑いを浮かべて言った。
堕胎手術の予約は5日前に取り付けていたらしい。
当座の金銭面の援助は、葛西が取り計らう約束をしていた。葛西からの提案だった。
「じゃあ、どんな事してでも返すから」と彼女は言った。
葛西は正直、金が返ってこようが来まいがどうでもいいと思っていたので、その時の
彼女の口元----------微かに白い歯を覗かせて下唇を噛むさまに、ぼんやりと見蕩れた
だけだった。
男の眼……否、個人的主観から述べて、沙織は可愛い娘だと思う。
若さ特有の感情を持て余して、自分の汚い部分に嫌悪を抱くような、綺麗な少女だ。
この手術が終われば、汚れを容認できる女になるのかもしれない。
それが少し残念でもあり、何故か羨ましくもあった。
待ち合い室で沙織は、誠人と時坊についてを尋ねてきた。
気を紛らわす為なのか、それとも彼らが気になっての事なのか、定かではない。
------------18年前、葛西は同じこの場所でひとつの命を奪った。
その代償に、ひとつの愛も失った。
ほぼ時を同じくして産まれた、姉の子供。それが誠人だった。
産まれてくる筈だった命、それを誠人に重ねていなかったと言えば嘘になる。
だから尚更、それが大事でもあり、持て余しもするのだろう。
じきに診察室のドアから、トウのたった白衣の天使が顔を覗かせ、沙織の名を呼んだ。
「-----------大久保さん、中へどうぞ」
立ち上がって沙織は、少し困ったような、諦めにも似た妙にサッパリとした笑顔を
こちらに向けた。
同じだ。-----------あの時と。
微笑みが時にどれだけ残酷か、女という生き物は自覚しているのだろうか。
目の前の少女にかけてやる、ロクな言葉が見つからなかった。
そうしてまた、隔たりの向こうへと消える、華奢な背中を見送るだけだ。
産婦人科を象徴する、あのグロテスクな形の診察台の上で、脚をひろげ局部を晒して、
少女は何を思うのだろうか。
爪の間が黒ずんでいる事に気付く。垢ではない。乾いた微量の血だ。
考え事があると、気付かないうちに眉の端辺りを血が出るまで掻き毟っている。
おそらく、成人してからの癖だ。
硬くなった皮膚をまた剥く。
塞がればまた硬くなる。
剥く。
堂々回りだ。
かと言って、この悪癖を直す気はなかった。煙草と同じだ。
自分の身体がどう壊れようと傷つこうと、誰にも迷惑をかけちゃあいないだろという、
ある種の驕り。
幼稚だ。
それに気付かず続ける事より、幼児性を自覚している事を言い訳に出来る狡さがまた、
幼稚だった。
女はいつでも何度でも、男を産み直そうとする
……かのように、見える。
男の被害妄想だ。
否、願望か。
煙草が吸いたいと思った。
そうだ、外へ出よう。
俺はもう、女の腹の外にいる。
自分の脚で何処へでも行ける。
それがただの錯覚だとしても。
肺を有害な煙で膨らまそう。
肩でドアを押し開け、靴の踵を引き摺るようにして外へ出た。
眼球を抉るような太陽の眩しさが、白々しい昼時だった。
END.