最遊記RELOAD 是空の民

   ■第一章■

   † 焔 †

 「不浄の物だ。素手で触らんようにな」

 衛兵のひとりが放った一言で、男に触れようとしていた他の四人は一瞬、ビク
リとその手を引っ込めた。
 だが上官に「やれ」とひと睨み促され、おそるおそる男に近付き鎖を杭から外
しにかかる。
 男は十字架に張り付けられたような格好で、地下牢の壁に鎖で繋がれていた。
 衛兵達が近付いても顔すら上げない。一見すると死体のようだった。
 だが、確実に生きている。
 やつれてはいるが、繋がれた腕から肩にかけての筋肉はゆるやかに瑞々しく隆
起し、無造作に延びた黒髪もまた、薄暗がりの中で独特の光沢を放っていた。
 衛兵のふたりは、長い槍の柄で両脇から男の痩せた首根を前倒しに押さえ付け
ている。
 衛兵の脅えが伝わるように、槍の柄はしなる程の力で男の後ろ首に食い込んだ。
 錆び付いた拘束具の鍵が思うように外れず、無理な体制を強いられたままの男
の肩骨がミシリと嫌な音を立てたが、衛兵達も、男自身さえもそれを気にとめる
事はなかった。

 「…暴れ出したりしませんかね」
 「そんな体力はありゃあせんだろう」
 「分からんぞ、なにせ化け物だからな」
 「しッ、口が過ぎる。仮にも“闘神太子殿”の御前だ」
 「はは、心配するな。言葉も教えていないそうだからな。我々の会話など、理
  解できる筈もない」

 その刹那ガチャリと音を立てて、男の両手首に下がった鎖が壁の杭から放たれた。
 槍で押さえ付けられるがままに、男の長い身体はベしゃりと冷たい地面に崩れ
落ちる。地下水が染み出した小さな水溜まりが、その頬をしたたかに濡らした。

 「連れてゆけ。-----------さぁ、外に出してやるぞ化け物。どんな気分だ?」

 ……外……。
 そうか、俺は出されるのか。
 光の射す場所に。

 男は、言葉という物をほぼ完全に理解していた。
 獣の類いかのような扱いを受けつつも、元々の知能は異常なまでに高い。
長い年月の中で接触した数少ない人物や、空気孔から漏れ伝わる外界の音が、与
えられる唯一の情報だったのだ。
 だが衛兵達が自分に向け放った侮蔑の言葉に対して、男は何の感情も抱かなかった。
 漆黒の髪の先から頬を伝う無色の水滴だけが、ただ漠然とリアルだった。
 ゆっくりと顔を上げる。
 黄金と紺碧の二色の瞳が、濡れた髪の隙間から地上へと続く階段を見詰めた。
 突き当たりの扉からは白く強い明かりが蜘蛛の糸のようにキラキラと、暗闇
の褥に禍々しく射し込んでいる。

 そして獣は、太陽の下に放たれた。

   † 紫鴛 †

 弱った両足を引き摺られるようにして、見た事もない豪華な大広間に通された。
 陽の光は眼球を突き刺すほどの眩しさだったが、広間を飾る装飾品の細かさや
踊り狂う原色は、別の意味で脳を眩ませる。

 「---------焔よ」

 台座に腰掛けた見知らぬ初老の男---------「天帝」と呼ばれていた--------が、
物々しく口を開いた。
 男は顔を上げる。呼ばれたのは、既に忘れかけていた自分の名前だと気付いた
からだ。
 焔に返事はなかったが、天帝は一方的に語りかけて来た。
 先代の「ナタク」という名の「闘神太子」が退任した為、その使命がお前に託
されたのだと。
 天界の栄華の為、忠義を果たし死力を尽くせと。
 「不浄の者」であるお前には、他に取るべき道はないのだと。
 ……無駄な言い回しが多く聞き取り辛かったが、要はそんな内容だった。
 いらえを返すつもりも無かったので終始沈黙を保っていたが、言語が不自由だ
という勝手な解釈により面通しは無事終了の運びとなった。
 元々、肯定も否定も有り得ないのだろう。強制なのだ。

 次に通されたのは、天帝の宮殿からだいぶ離れた棟の一室。

 「どうぞ太子、中へ」

 どこからスイッチが入ったのか、衛兵達は何時の間にか焔を「太子」と呼び、
その態度も言葉も即席の恭しさを纏った。
 数歩、室内に足を踏み入れる。
 焔の動きに合わせて、その両手首に嵌められた手枷を繋ぐ一本の鎖が、ジャ
ラリと重々しい音を起てた。両手を広げて尚尺が余る程、長い鎖だ。
 錆びる事のない特殊な鉄で作られているが、血を吸ったように黒く鈍い光沢
を放っていて、焔とともにあった長い歳月を思わせる。

 「今日からここが、焔太子のお住まいとなります。後で使いの者が参ります
  ので、しばしごゆるりと」

 そう言い残して衛兵は、用済とばかりにそそくさと立ち去った。
 焔は部屋の中央に立ち尽くしたまま、辺りをゆっくり見渡す。
 何もない。空箱のようだが、そこそこ広さもあり小奇麗な部屋だ。勿論、地
下牢とは比べ物にならないほど明るい。
 ふと、開け放たれた窓から、小さな白い物がヒラリ舞い込んできた。
 ひらいた掌にそれを受ける。楕円の形の花弁だった。よく見ると薄紅色をし
ている。
 焔は不思議そうにそれを眺めた。桜という物を彼は知らなかった。
 この部屋の窓からはその姿は見えないが、天帝の城内は常から、枯れる事の
ない桜が波打つように咲き乱れているのだ。
 視界の端に人影が映ったので、焔の興味は花弁から削がれた。
   部屋の入り口にいつの間にか、見知らぬ男が立っていた。
 気配をまったく感じなかった事に好奇心を惹かれて、焔は男に視線を留める。
 全身を薄紫の着物に包んだ、細身の男だ。外見だけで言うなら焔より少し歳
が上かもしれない。
 銀色にも近い、淡い藤色の髪を引っ付め、後ろ頭で結い上げている。
 肌は不健康な印象を与えるほどに青白い。
 男はただ静かに眼を閉じてそこに立っていた。
 が、確かにこちらを見ている。焔はそう感じた。

 「お初にお目通り申し上げます。闘神焔太子」

 穏やかで、じわりと耳に染み入るような音が男の口元から発せられた。
 男は瞼を開かぬまま、ゆるやかに、滑るように一歩踏み出し、焔の足元へと
跪く。一切無駄のない動き。
 髪を束ねる無数の帯が男の動きを後追いして、ゆっりたと靡いた。
 更にその動きを焔の二色の瞳が追い掛ける。
 綺麗な流れだ、と焔は思った。彼が初めて目にした“舞”かもしれない。
 藤色の男は焔の足元で、顔を臥せたまま続けた。

 「代々の闘神太子の教育係を務めさせて頂いております。私の事は、紫鴛と
  御呼び下さい」
 「……しえん……」

 その名を、焔は興味深そうに口の中で転がす。無垢な子供がするように。
 紫鴛と名乗った男は静かに立ち上がり、焔に向き直って続けた。

 「紫の鷺、と書きます」
 「さぎ?」
 「鷺とはコウノトリ科の鳥で、“雪客”という異称で呼ばれるように白い羽
  根を持つ生き物です。…鳥を御覧になった事は?」
 「いや……わからない」

 焔は素直に答えた。そして少し考えてから、

 「---------------だが、見てみたい。それがお前の名なら」

 濁りのない言葉だった。  紫鴛はしばしの間、焔の“気配”を見つめた。
 それから口許に初めておだやかな笑みを浮かべて、答える。

 「これからはどんな物でも眼にする事が出来ますよ。貴方はもう---------
  自由なのですから」

 柔らかい風が舞い込んだ。
 どこか甘い匂いのする風は、焔の髪や羽織りの裾、紫鴛の髪結びを緩やかにな
びかせたが、焔の両の手を繋ぐ鈍色の鎖を揺らす事はなかった。

 行きつく先を知らない、鳥が二羽。

   † 是音 †

 数カ月振りに降りた「地下牢」は、焔が長年過ごした独房とは異なる場所だ
ったが、その重い闇の色も湿った匂いも、ひどく懐かしい物に思えた。
 松明の炎が焔と紫鴛の影を石畳に描く。影は別の生き物のように長くゆらめ
いている。
 焔は紫鴛に促されるまま、最奥の牢の前に立った。

 「……なんだ、飯の時間にゃまだ早いんじゃねえか?」

 鉄格子の向こうの暗闇から、野太くしゃがれた声が投げられた。
 眼が馴染んでくると、声の主がぼんやりとそこに浮かび上がる。拘束具は付
けられていないが、だらしなく壁に凭れて座り込んでいる人影がひとつ。
 酒焼けした声から受ける印象より、いくらか若い男。

 「天界東方軍、是音大将ですね」
 「是音“元”大将だ」

 紫鴛の問いかけに、是音と呼ばれた男はハッと肩で笑いながらそう返す。
 焔は無言のまま、男を見下ろしていた。男の右目の辺りにぽっかりと開いた、
黒い闇が気になっていた。が、よく見るとそれは穴ではなく、漆黒の眼帯だっ
た。大きな眼帯が男の顔に根を張るように埋め込まれている。
 紫鴛は顔色ひとつ変えずに、続けた。

 「是音殿におかれては既に御存知かもしれませんが、那咤太子が闘神を退任
  されました。今現在はこちらの焔太子が後任を務めておられます」
 「へぇ、成る程。この兄ちゃんが新しい“不浄の者”か」

 悪びれる様子もなく是音は言い放ち、左目で遠慮のない視線を焔に向ける。

 「よろしく、お仲間」

 檻の中で光る鋭い眼光が、横に伸びた。笑っているのだろう。
 独眼の肉食獣がそこにいるようだった。

 「……で?その闘神太子様が、俺に何の用だってんだ」

 冷やかすように言いながら、異国風のジャケットに包んだ上半身を起こし、
口の端を上げるのが見えた。

 「先代の那咤太子率いる軍隊は、壊滅致しました。…いえ、正確には斉天大
  聖の謀反事変以来、天界軍自体が壊滅状態にあります」

 紫鴛の言葉を聞きながら、是音はズボンの尻ポケットからくしゃくしゃにな
った煙草を取り出し、ケース同様よれた一本を歯に銜えた。

 「ああ、凄かったらしいな。反乱軍はたったの四人だったそうじゃねえか。
かの捲簾大将や天蓬元帥が先導していたと聞くが」
 「ええ。那咤太子退任の原因も、すべてはあの事変が引き金ですから」
 「俺はここにいたんでな、詳しくは知らねえが。なんせ、今となっちゃその
話は天界じゃ御法度だ。----------地下牢の中とはいえ、お役人が易々と口に出
す話題じゃあねえと思うぜ」

 へっ、と粗野に笑ってみせる。その眼はしかし、笑っていない。
 ライターの蓋が開く心地良い金属音が、地下室に高く響く。
 煙草の先は湿っているのか、火種が灯るまでしばらくかかった。
 是音が煙をひと息吐き出すまでを見計らって、紫鴛は続けた。

 「つまり是音元大将、貴方に軍人として、焔太子の配下を務めて頂きたい」
 「…罪人である俺を、ここから出してくれるってのか?」

 鉄格子の向こう、左目と、煙草の火種がじっとこちらを睨んでいる。

 「……はッ、ゴメンだな。俺はこの牢屋にいた方が気楽でいいんだよ」

 焔は是音の吐き出す煙が、松明の明かりにはかなく揺れる様を見送った。
 ------------紫鴛からこの男の事情はおおまかに聞かされていた。
 天界軍に属す有能な軍人であったという事。
 調査の為に下界に派遣されていたが、そこで下界の妖怪の女性と恋仲になり、
子供まで設けたという事。
 それが公になり、不浄を働いた者として天界に連れ戻され、この地下牢に幽
閉されているという事。

 「妻も子供も、死んだ」

 是音は見透かしたように、突然ぽつりと呟いた。

 「俺がここでこうしている間にな。下界の時間は早い。数百年も経っちまっ
  てるんだ」

 煙草の火種が、煙を吸い込む度にふわりと紅く灯る。
 蛍火だ。小さな命がそこに灯っている事を、訴えるような蛍の瞬きだ。

 「俺にはもう、何も残っちゃいない。……そういう事だ」
 「お前が残っている」

 初めて焔が口を開いた。
 是音が視線を上げる。

 「お前にはまだ、お前自身が残っている」

  柔らかい低音の、落ち着いた声。地下室に灯る炎にも似た声。

 「お前の存在は俺が認めよう。俺がお前を照らす灯になろう」

 歌。言葉が歌のようだ。

 「お前を生かす為に、お前は俺を生かせ」

 表裏一体の理だ。

 善と悪。

 無と有。

 希望と絶望。

 過去と未来。

 曼陀羅を描くようだ----------焔の紡ぐ音に、是音は漠然とそう感じた。
 永遠に繰り返す、昼と夜。
 自分を見つめている、黄金と紺碧の瞳。
 焔は、右手に持った柄のような物を己が目前に翳した。
 そこから炎が立ち上るように、橙色の熱が走る。それは瞬時に大きな刃の形
を取り、燃えるような光を帯びていた。
 焔の発する気を集め、熱と光によって形を成す青龍刀である。
 是音は、眩しさに思わず翳した掌の影から、破滅のように燃える刃を見ていた。
 やがて燃え尽きる炎を思った。煙草の火種のように。
 ただ何故か、それに惹かれた。
 懐かしく、強く、儚く、尊い炎だと、感じた。
 焔は青龍刀を、風を斬るように大きく真一文字に走らせる。
 熱線で瞬時に焼かれたように、激しい音と火花を散らして、牢の鉄柵が切断
され、彼等を隔てていた物は溶けるように消え失せた。
 焔は青龍刀を降ろし、何事もなかったかのように踵を返すと、地下牢の出口
に向かってひとり歩きだした。

 「--------------焔……」

是音は初めてその名を口にした。呼び止めたつもりはなかったが、焔は足を止
めた。紫鴛と是音に向き直る事のないまま、焔が言う。

 「来い。俺とともに生きろ」

 表裏一体の理。
 まるで希望の調べであり、破滅へ誘う呪詛でもあった。
 しかし、是音は立ち上がる。
 再び出口へと向かい始めた焔のその背中を、紫鴛と是音は追って歩き出した。
 焔が地上へと続く扉を大きく開け放つ。

 三つの影は、白い光の中に呑まれて、消えた。

       続

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